2021年8月29日(日)「立ち帰れ、立ち帰れ」

2021年8月29日礼拝メッセージ メッセージ

宣教題:「立ち帰れ、立ち帰れ」
聖書箇所:エゼキエル書33章10~20節

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おはようございます。
今朝も、聖書の言葉に心を留めるひとときを、ご一緒に過したいと思います。
さて、早いもので、8月も間もなく終わります。それにしても、新型コロナウイルスはなかなか収束の見通しが立ちません。昨年の3月ごろからでしょうか?…。新型コロナウイルスの感染が世界的に広がって、この感染症がどうなっていくのか?…、いろいろなことが言われてきましたが、今、日本では、いわゆる「第5波」と呼ばれる感染拡大の状況を迎えて、なおこれから先、その見通しは立ちません。私たち人間には「分からない」ということが、まだまだ沢山あるようです。しかし、それでも…、始まったものは、いつか、必ず“終わり”というものがあるでしょう。この度の新型コロナウイルスも、例外ではないと思います。“それ(こと)”は不意に、私たちのもとにやってきて、社会に非常に大きな影響を与え…、多くの人を死に至らせ…、多くの人に苦しみや悲しみも与え…、そして、“それ”は、やがて不意に去っていく、ということでしょうか? もちろん、今はまだ、コロナの危機は終わっていません。「やがてまた不意に去っていく」としても、今はまだ、コロナが大きな影響力を持っている世界に生きています。しかし、私たちは、そういう“とき”だからこそ、心に留めておくべきことがあるかもしれません。それは…、私たちが、このコロナの経験から、何を大切なこととして感じているのか?…。何を大切なこととして学んでいるのか?…、そういう事についてです。私たちは、よく「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ようなことがあると思います。この8月…、礼拝の宣教では76年前の戦争のことを覚えてきました。たとえば、あの戦争の経験から大切なことを学んだはずなのに、“それ”が過ぎていけば忘れてはならないことを忘れていく私たちです。

8月は、「エゼキエル書」を読んでいます。今日の箇所は「エゼキエル書」33章10節~20節です。33書11節には、次の言葉がありました。「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」。先週の18章の内容と似ています。預言者エゼキエルから繰り返し語られる「立ち帰れ!」との言葉…。頑なだったイスラエルの民は、とうとう「最後の砦」とも言うべき、都エルサレムがバビロンによって落とされるに至って、これまで向き合うことができなかった自らの過ちに顔を向け、預言者エゼキエルを通して語られる神の言葉を聴こうとしています。イスラエルの民にとっては、バビロンとの戦争という重大な“こと”が起こり、まさに、その中で、都エルサレムの陥落という、行き着く所まで行き着いて、ようやく向き合わなければならないことに目を留めていった…。そういうことではなかったか?…、と思います。けれども、私は…、ここまで「エゼキエル書」を読んできて…、しかし、どうして人間というものは、行くところまで行かなければ…、ここに至るまで、すでにイスラエルの民は戦争によって多くの痛みを受けてきたのです。苦しんできたのです。「バビロン捕囚」という…、国の主だった人たちが異国に強制連行されるという、屈辱的な出来事さえ負わされているのです。しかし、そうした絶望的な状況であるにもかかわらず、少しも生き方を変えようとしないイスラエルの人たち…。「エゼキエル書」をここまで読んできて、主なる神さまに背を向け続け、偶像礼拝に走る人々のことも見てきたのです。
しかし、この「エゼキエル書」の物語…、私は、この国の、あの76年前の戦争のことも思いながら、「歴史は繰り返す」と申しましょうか?…、「人間は変わらない」と申しましょうか?…。イスラエルの人たちの頑なさは、また、私たち・この国の頑なさと、少しも変わらないことを思いました。この国も、あの76年前の戦争では…、戦争は、ある時点で、大勢は決していたでしょう。にもかかわらず、その生き方を変えることができず、主なる神さまに背を向け続け、人間を「神」として歩んだ私たち・この国の人たち…。しかし、今日の「エゼキエル書」の都エルサレムの陥落と同じように、沖縄を地獄の戦場と化し、さらに、広島と長崎に、一瞬にして人をその姿かたちさえ消し去ってしまうような原爆まで落とされて…、まさに、行き着く所まで行き着いて…、そこで、ようやく無条件降伏したのです。「人は、同じ過ちを繰り返す…」と、しみじみ思わされてもいました。聖書に…、神の言葉に…、真摯に耳を傾ける者であれば…、あるいは、人の生き方というものは変わっていくものでしょうか? 変えられるものでしょうか? しかし、あの戦争という重大な“こと”が過ぎて76年…。私たちは、どんなに重大なことでも、“それ”が過ぎれば、そこで学んだ大切なことを忘れていく者でしょう。「エゼキエル書」が、神の言葉と向き合ったイスラエルの歴史を記録し、この書が「聖書」として、今も私たちに読み継がれているのは、「立ち帰れ、立ち帰れ!」というエゼキエルを通して語られた神の言葉が、何より、私たちにも…、私たちのこの社会にも…、必要な言葉であるからでしょう。今、「パンデミック」…、新型コロナウイルスという、感染症が世界中に蔓延する時代を生きて…、けれども、始まったものは、いつか必ず終わりが来るでしょう。しかし、“それ(こと)”が過ぎ去った後のことを思うとき、しかし、今、渦中にあるこのときだからこそ、心に留めるべきことが“ある”ということも感じるのです。

毎年、西南学院大学神学部から、『道』という冊子が送られてきます。昨年の11月に送られてきた『道』(2020年)の中に、「コロナの中で、コトバを紡ぐ」という特集記事がありました。ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。神学部も、昨年の前期は、対面での授業を取りやめ、すべてリモート(遠隔)での授業だったようです。寮の各部屋からパソコンなどで繋がって、授業が行われていたようです。神学生の皆さんが、コロナ危機の中で、それぞれがお感じになった「思い」を特集記事の中に書いておられました。それぞれに、このコロナのときに感じた、率直な「思い」を書いてくださっていて…、どれも、ご紹介したいのですが、時間が限られていますので、ここでは、代表して、お二人の方の文章を読みしたいと思います。
お一人は、今年の3月に神学部を卒業されて、4月から北九州にある小倉春ケ丘教会の牧師として働き始められました、千葉仁志(ちば ひとし)先生の「つながりの大切さ」という題の文章です。「つながりの大切さ:コロナのわざわいは、私たちの生活を大きく変えました。当たり前だと思っていたことが、当たり前ではなくなってしまいました。このわざわいは、どうやら長く続きそうです。経済的に大きな打撃を受けてしまっている人たちがおります。それほど打撃を受けていない方でも、この現状を悲観的に捉えておられる方が多いような気がします。コロナ禍によって変えられてしまった私たちの生活様式は、元には戻らないかもしれません。しかし、この世は少しずつではありますが、良い方向に進んでいるのだという希望を持ち続けたいと思います。新型コロナウイルスの感染が世界中に広まったことで、私は世界の人々は皆つながっているのだということを、改めて実感しました。また、自粛を強いられていた期間を過ごしたことで、人のつながりの大切さを思わされました。私は、この数か月間で、焦らずゆっくりと生きていきたい、人とのコミュニケーションを大切にしながら、丁寧に生きていきたい、と思うようになりました。人は、一人では決して生きていくことができないということを、皆が気づかされたのではないでしょうか…」。そして、もう一人は、今年度、神学部の最終学年ですね。奥村献(おくむら ささぐ)神学生が書いた、「立ち止まろう」という詩です。「立ち止まろう:立ち止まろう 何をそんなに急いでいたのか  立ち止まろう 『効率よく』動くことに意味はあったか  立ち止まろう 『無駄』をはぶくことに意味はあったか  立ち止まろう 余裕をもって歩き出せるときまで  立ち止まろう そして見つめよう  立ち止まろう 目の前にあった大切なものに立ち返ろう  立ち止まろう ヤイロの娘を救う途上で立ち止まったイエスのように」。

千葉仁志牧師は、この度のコロナのことで「世界の人々はつながっていると、改めて実感した」と述べ、「人は、一人では決して生きていくことができないと、皆が気づかされたのではないか?」と書いておられました。そして、ご自身でも、何より「人とのつながりの大切さ」を思わされたこと…、また、「焦らずゆっくりと生きていきたい。人とのコミュニケーションを大切にしながら、丁寧に生きていきたい」…、そのような「思い」が、このコロナ危機の中で感じたこと、と書いておられました。また、奥村献神学生は「立ち止まろう」との詩の中で、一度、立ち止まり、これまであまり考えてこなかったようなことを…、急ぐこと、効率よくということ、無駄をはぶくこと…、などなどを、問い直し、改めて、自分の(人の)生き方を見つめ、たとえば、「目の前にあった大切なものに立ち帰ろう」と、書いていました。もう1年半も続く、このコロナの中での生活ですが…、皆さんは、それぞれに、何をお感じになってこられたでしょうか? きっと、この状況だからこそ…、コロナの前には、あまり立ち止まって考えなかったような「思い」があるのではないでしょうか?…。
絵本作家の五味太郎さんも、「コロナ」について…、「コロナのせいで、大人が不安定で、子どもも居心地が悪いのではないか?」と質問されると、「はい、一緒に考えましょう」と言って、次のように言われました。「それでは、まず聞くけど、逆に、コロナの前は安定していた? コロナ禍じゃなかったときは、居心地がよかった? むしろ、俺は、子どもたちは、これがチャンスだと言いたいな。心も日常生活も、乱れるがゆえのチャンス。…(中略)… だって、仕事も学校も、ある意味では、今、枠組みが崩壊しているから、普段の何がつまんなかったのか、ニュートラルに問い易いときじゃない? 今は、幸か不幸か、時間が余っているんだから…。こういう時って、いつも『早く元気に戻ればいい』って言われがちだけど、じゃあ、戻ったその当時って、本当に充実していたの? 本当にコロナ前に戻りたい?って、問うてみたい。戻すってことは、子どもに失礼な形の学校や社会に戻すってことだから…」。五味太郎さんも、たとえば、奥村献神学生の詩のように「立ち止まり」、突然できた空白の時間を使って、この世界を…、この世を…、「見つめよう」と言うのでしょう。当たり前だった風景が止まっている。止まっていると、動いていたときは気づかなかったことに気づくことができる。千葉仁志牧師は「世界の人々はつながっていると、改めて実感した」と書いておられました。「人は、決して一人では生きていくことができないと、皆が気づかされたのではないか?」とも書いておられました。「たとえば」の話しで…、千葉牧師や、奥村神学生、また作家の五味太郎さんのことを取り上げましたが…、私たちそれぞれが、このコロナ危機にあるとき感じている「思い」を、このコロナが過ぎ去ったあとも、心に留めておくことができれば…、しかし…、おそらく、そういう大切な「思い」は、すっかり忘れていくのでしょう。これまでの私たちがそうであったように…。私たちは、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のです。

私は、このコロナ危機の中で、アルベール・カミュが書いた『ペスト』という小説を読む機会が与えられました。また、あるいは、それまでは、名前ぐらいしか知りませんでしたが…、ちょうど100年前にあったという「スペイン風邪」と呼ばれた史上最悪のインフルエンザのことも、少し詳しく知る機会が与えられました。そして、その「スペイン風邪」の前にも、さまざまな疫病が、この世界を覆い、繰り返し、繰り返し、その時々の人間社会を大きく揺さぶり、多くの人を死に至らせ、これまで当たり前のように考えられてきた社会の秩序や常識といったものを、根底から問い直すような機会を呼び覚ましていたことも知りました。たとえば、ペストが、ヨーロッパ世界を中世から近代へと、時代を変える契機ともなったように…。
しかし、それでも、ペストなり、「スペイン風邪」と呼ばれるインフルエンザなり、また、今回の新型コロナウイルスなり…、つまり、“それ”が何であれ、“それ”は不意にやって来て、しかし、また不意に去っていくのです。「不意」でも、しかし、「去っていく」と言うのであれば…、“それ”が、たとえ何であれ、「去っていく」のですから…、もう、私たちは、“それ”に怯えることも、“それ”に囚われることも、なくなるのでしょう。確かに、それは、“解放”です。この暑い夏に「マスクをしなくていい」と言うことだけでも、それは解放でしょう。けれども、問題なのは…、たとえば、私が、今回のコロナ危機のことで教えられた1つのことは、ペストだろうが、スペイン風邪だろうが、新型コロナだろうが、何だろうが…、そして、今日の宣教の冒頭で触れましたように、その“それ(こと)”の中には、戦争や、さらには、原発事故や、あるいはまた、震災などの自然災害のことも考えていいでしょう。そういう“それ”は…、“それ”を記録してきた歴史的な文書であれ、小説であれ、何かの物語であれ…、そして、まさに、今、私たちが読んでいる聖書…、「エゼキエル書」の物語も、そうでしょう。そういう、重大な“それ”を記録してきたものは、不意に“それ”が去ったあとでも、実は、“その先の物語を書き加えている”ということなのです。そして、そのことが、どうも大切なことのようです。たとえば、カミュが書いた小説『ペスト』は、最後に、不意にペストが過ぎ去った後のことを、次のように書いています。「実際、リウー(医者・主人公)は、この町から立ち上る歓喜の叫びを聞きながら、この歓喜が常に脅かされていることを思い出していた。というのも、彼は、この喜びに沸く群衆の知らないことを知っていたからだ。それは様々な本の中で読めることだ。ペスト菌はけっして死ぬことも、消滅することもない。数十年間も、家具や布製品の中で眠りながら生き残り、寝室や地下倉庫やトランクやハンカチや紙束の中で忍耐強く待ち続ける。そして、おそらく、いつの日か、人間に不幸と教えをもたらすために、ペストはネズミたちを目覚めさせ、どこか幸福な町で死なせるために送り込むのである」。

“それ(こと)”が何であれ…、ペストであれ、スペイン風邪であれ、新型コロナであれ…、あるいはまた、戦争であれ、何であれ…、始まったものは、いつか必ず終わりが来るでしょう。そして、その「終わり」の後に、何が続いてやって来るのか? もちろん、それは、“解放”という言葉で表現できる「何か」もあるでしょう。この度のコロナのことでは、日常生活の様々な制限の中で、仕事ができなかったり、職を失ったりして、生活苦を抱える多くの人たちがいます。また、神学部のことにも触れましたが…、学びの機会をはじめ、いろいろなことを断念した人たちも多いでしょう。そうしたことから解放されることは、本当に感謝なことです。一日も早く、解放されたいと願います。祈ります。でも…、“それ(こと)”が何であれ、その「終わり」の後に、何が続いてやって来るのか? それは、解放だけではなく、実は、“忘却”ということがやって来ることを…、“忘れる”ということがやって来ることを…、歴史は繰り返し私たちに教えているのです。先ほどの小説『ペスト』がそうでした。そして、もちろん、聖書は…、「エゼキエル書」の物語は、そのことをよく分かっているのです。しかし、どうして、私たちは、忘れていくのでしょうか? それは、おそらく、私たちが「普段」の生活に戻るためではないか?…、と思います。一日も早く、「普通」の生活に戻りたい。しかし、私たちが経験したもの…、見たもの、聞いたもの、体験したもの、それらすべては、人が静かに「普通」の生活に戻ることを拒むので、私たちは、言ってみれば、それらを本能的に忘れていくのかもしれません。

今日の「エゼキエル書」で言えば…、私たちは、“戦争”を忘れるのです。特に、“忘れたい”ことを、忘れていく…、忘れようとする…、そういう者ではないでしょうか? 己を「神」のようにして、まことの神を軽んじ、道を誤り、預言者を通して「するな!」と言われていたバビロンとの戦争に突き進み、そして、挙句の果てには、行き着く所まで行かなければ、戦争を止めることができない。都エルサエムが焦土となって、ようやく戦争は終わったのです。しかし、それは、一体、どこの国の話しでしょうか? けれども…、大切なことは、聖書が、そのことをしっかりと記録に留めていることでしょう。“忘却”は…、“忘れる”ことは…、それは、私たちが人間である限り、避けがたいことです。そのことを、小説『ペスト』を書いたカミュも言っています。けれども、そうであるなら、大切なことは、“記録する”こと、そして、まさに、今日の「エゼキエル書」…、その記録された神の物語に、私たちが“立ち帰る”ことです。聖書が、まさに救いの書であるのは…、神の言葉であるのは…、あのバビロンとの戦争の歴史を…、神の民イスラエルにとっては、それは、隠したくなるような歴史でもあるのです。恥ずかしい…、みっともない…、そういう歴史でもあります。でも、人が二度と同じ道を歩まないために、忘れてはいけないことを、聖書は書いた! 人は忘れていく…、でも、大切なことを、繰り返し“記憶する”するために…、繰り返し“立ち帰る”ために…、聖書は、神の言葉として、イスラエルのマイナスの歴史を含めて、その物語を書き留めている!のです。そこに、私は…、私たち人間のまことの希望が…、救いが…、“ある”と感じています。私たちの国は、あの戦争から76年目のこの夏…、一体、何を、記憶として共有しようとしているのでしょうか? 大切なことを忘れていく私たち…、「エゼキエル書」を読む私たち教会は、人がまことに“立ち帰る”べきことを語り継ぎ、神の言葉の記録をこそ分かち合いたいと思います。

<祈り>
愛する神さま、教会に集まっての礼拝は休止していますが、それぞれの場所での礼拝を感謝いたします。ともすると、私たちは、自分の見たい現実だけを見、知りたい現実だけを知ろうとするものです。しかし、そうやって、自分の都合だけで歴史を切り取っていこうとするなら、本当に、思い起こすべき大切なことを、消し去ってゆくかもしれません。過去のあの戦争の大きな過ちを繰り返さないために、あなたの言葉に聞く者としてください。大切なことを忘れていく者です。あなたの言葉に立ち帰り、心に留めていくべき言葉をいただいて、あなたと共に…、隣人と共に…、生きる者と、私たちをお導きください。
このお祈りを、主イエス・キリストの名前で御前にささげます。アーメン。
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◇牧師より……高崎教会の皆さまへ お知らせ
*それぞれの場所での礼拝のひとときが、神さまの言葉に心を向け、神さまとの対話のときとなりますように。各執事から連絡があると思いますが、昨日(8月28日)臨時役員会を開き、今もなお新型コロナウイルスの感染が拡がっており、希望する人へのワクチン接種が十分には進んでいない状況であることなどから、教会に集まっての集会はまだリスクが高いと判断しました。よって、教会に集まっての主日礼拝等すべての集会を9月12日(日)まで延長して休止します。教会にとっては厳しい状況が続きますが、教会員の皆さんにはご理解いただきますように、よろしくお願いします。教会に集っての礼拝再開を願いつつ、9月19日(日)以降のことは、後日改めてお知らせします。

*各家庭での礼拝のために、当教会ホームページ上に、礼拝宣教の原稿を上げていただいています。通常の「聞くかたち」での宣教ではなく、「読むかたち」の宣教です。私の宣教原稿は「台本」のような役割を持たせていますので、「間」を取る指示としての句読点や「…」の表記が多々出てきます。そのときは、宣教者(森)が少し「間」を取っているとご理解ください。「読むかたち」での宣教が苦手な方もおられると思いますが、それぞれに、聖書から何かのメッセージを受け取っていただければ幸いです。

*水曜日の祈り会も教会に集まっての集会を休止しています。それぞれの場所での祈りの時間が守られますように。今月の祈りの課題として、引き続き、新型コロナウイルス感染収束のために、キリストの平和を覚えて、など。連日、残暑の厳しい日が続いています。どうぞお身体ご自愛ください。それぞれにご無理がありませんように。また、子どもたちも2学期が始まったでしょうか? 新型コロナウイルスの感染が拡がっている状況です。子どもたちの健康と学びの場が守られますように。連盟諸教会の祈りの課題を覚えてください。先日の豪雨で岡山教会の会堂や牧師館など甚大な被害が出て、建物の建て替えが必要との報告もありました。高橋周也(たかはし ひろや)牧師家族と岡山教会のことを覚えてお祈りください。教会員の皆さまのご健康が守られますように。

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