2021年9月5日(日)「いのちの牧者」

いのちの牧者 メッセージ

宣教題:「いのちの牧者」
聖書箇所:エゼキエル書34章1~16節

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おはようございます。
今朝も聖書の言葉に心を留めるひとときを、ご一緒に過したいと思います。
さて、9月に入りました。引き続き「エゼキエル書」を読んでいきます。ここまで、5回に亘って「エゼキエル書」を読んできました。皆さん、それぞれに、どのようなことをお感じになっておられるでしょうか? 「エゼキエル書」が語りかける、自分自身へのメッセージは何でしょうか? 聖書から聞こえてくるメッセージは、一人ひとり違います。「牧師」が言うから…、『聖書教育』に書いてあるから…、それが、その箇所の「答え」ではありません。もちろん、私たちは、一緒に聖書を読む仲間が受けた聖書からのメッセージを、お互いに大切に聴き合います。それぞれが、自分にない部分を補い合えば、より豊かに神さまからの語りかけを受けていくこともできるでしょう。まず“自分自身”へのメッセージを大切に…、そして、一緒に聖書を読む仲間たちへのメッセージを大切に…、神さまからの語りかけを豊かに受けていきたいと思います。
先週の宣教では、私は…、まず“自分自身”へのメッセージとして、「立ち帰れ、立ち帰れ」という宣教のテーマで…、この度の「コロナ」のことも、そうですし、あるいは「戦争」のようなことも、そうでしょう。私たちは人生の中で、ときに重大なことを経験します。けれども、たとえ、それがどんなに重大なことであっても、人は、一旦、その重大な“こと”が過ぎてしまえば、その経験の中で感じた大切なことを忘れていく者でしょう。そういう私たちのために、「エゼキエル書」は、神の言葉としてイスラエルの歴史を書き留めています。隠したくなるような人間の負の歴史さえ書き留めています。それは、人が二度と同じ過ちを繰り返さないために、私たちの“立ち帰るべき場所”を備えてくれているということでもあるでしょう。そのような聖書からの語りかけを、宣教を通して皆さんと分かち合わせていただきました。さらに、毎年9月は「教会学校月間」です。みんなで、聖書を学ぶ教会学校の働きを覚えています。ぜひ、皆さんも、それぞれが「エゼキエル書」からの神の言葉の語りかけを受け、そして、お互いに分かち合っていきたいと思います。

私は…、「エゼキエル書」を、何度か読む機会を与えられて、その都度、いろいろなことを感じていました。今回も、この書を読みながら…、“人が生きる”というとき、本当に大切な言葉を届けようとしてくれていることに、改めて気づきを与えられています。34章3節と4節に、次の言葉がありました。「お前たちは(イスラエルの牧者)、乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した」。『聖書教育』誌にも解説がありました。この34章は「イスラエルの牧者」と喩えられる“王さま”と、「羊の群れ」と喩えられる“イスラエルの民”のことが語られています。しかし、「イスラエルの牧者」と喩えられる王さまは、その民である羊の「よき牧者・よき羊飼い」ではなく…、先ほどの聖書の言葉…、「弱いものを強めず」、「病めるものをいやさず」、「傷ついたものを包まず」、「追われたものを連れ戻さず」、「失われたものを探し求めず」、「かえって、力ずくで、過酷に群れを支配した」とあるのです。それは、まったくもって、イスラエルの「牧者」失格…、「羊飼い」失格…、の、王さまでしょう。
聖書には、今日の「エゼキエル書」34章のように、「牧者」という言葉が・・・、「羊飼い」、あるいは「羊」という言葉が・・・、度々、出てきます。聖書の物語の舞台となった、今の「パレスチナ」と呼ばれるところが・・・、そこで、生活する人たちにとって、「羊飼い」や「羊」は、とても身近な存在だからでしょう。イエスさまも、譬え話で、身近なものをよく例に挙げて(「ぶどう園」とか、「農夫」とか)、人々に話しをされました。「羊飼い」や「羊」は、イスラエルの人たちにとって、誰もが直ぐに頭に思い描くことができる身近な存在なのでしょう。しかし、私たちにとっては・・・、少なくとも、私にとっては、「羊飼い」や「羊」は、身近な存在ではありません。ここで「エゼキエル書」が譬えで語ろうとしていることを、イスラエルの人たちと同じように、イメージ豊かに聞き取ることは、私には難しいかもしれません。もちろん、「羊飼い」や「羊」を、辞書などで調べることはできます。そして、「羊」も見たことはあります。そういう意味では、「羊」と聞いて、何かしらイメージすることはできるでしょう。けれども、実際の生活の中で身近に感じていることとは違うでしょう。今の私には、残念ながら、その「違い」を埋める手段はありません。それでも、1年ほど前でした。NHKの「プロフェッショナル」という番組で、日本に数少ない専業の「羊飼い」がおられまして…、酒井伸吾(さかい しんご)さんという方です。その「羊飼い」である・酒井伸吾さんのことを、お話ししたいと思います。私は、その番組で、「羊飼い」の仕事や生活の様子を少し教えていただいて…、それは、まったく私の足らないところを補っていただいて…、何も知らないよりは、遥かに、今日の「エゼキエル書」の言葉が少し身近に感じたように思います。

酒井伸吾さんが羊飼いをしているその牧場は、北海道東部・白糠町の山間にあります。すべて酒井さん手作りの飼育施設などが、東京ドーム2つ分の広さの牧場に点在し、およそ300頭の羊を一人で飼っておられます。私は…、まず「羊飼い(動物飼い)」というと、「アルプスの少女ハイジ」のアニメを思い出すか…、それとも、やはり、聖書の、イエスさまの「100匹の羊」の譬え話しを思い出すか…、私には、そのようなイメージでしょうか?…。300頭の羊を一人で飼うんですね…。実は、そういうこともよく知らない…。そうした話しを聞くだけでも新鮮でした。酒井さんによると…、一人で、もっと多くの羊を飼うこともできるようです。しかし、酒井さんにとっては「300頭」という数が、羊一頭一頭に目を配ることのできる、ちょうどいい数とのことでした。羊飼いの酒井伸吾さんには、口癖があります。それは「羊と相談です」という言葉です。あるいは「羊が教えてくれる」とか、「羊に聴いて」という言葉だそうです。とにかく、羊に向き合って…、「羊ファースト」です。先ほどの「エゼキエル書」の言葉に「群れを養おうとはしない」とありましたが…、酒井さんという羊飼いを見ているだけで、およそ「羊飼い」と呼ばれるからには、そもそも、羊を養おうとしない羊飼いなど、存在するのか?…、と思ってしまいます。この「エゼキエル書」の譬えは、当時のイスラエルの王さまに、強烈な皮肉を語りながら…、それだけに、事は重大なのでしょう。厳しく問いかけているのかもしれません。
羊飼いの仕事のピークは、真冬の1月中旬から2月にかけの羊の出産時期です。羊の出産はリスクが高く、生れる子羊の15%ほどが死亡すると言われています。番組で、酒井さんは次のように言っていました。「出産というのは、母親も、子どもも、命がけ。それを『リスク』と言えば、そうかもしれないけれど、むしろ、それこそが動物を飼う本当の意味だと思います。牧場の収入を増やそうだとか、生産性を上げて売り上げを伸ばそうとか、そういうことではなくて、目の前にある命と向き合って、その命を大切に育み、誰かの元へ届けていきたい…」。そういう思いで、羊の出産の時期を過ごすそうです。酒井さんは、極力、出産の介助をしません。手を出したくなるのを堪えて、じっと待ちます。状況を見極め、“ここぞ”というときにだけ手助けします。長年の羊飼いとしての生活から、“いのち”とは何か? そういう根源的なことを感じておられるようでした。子羊が次々に生まれて…、誰に教わるわけでもなく、母羊は、生れたばかりの子羊のからだを舐めてやり、綺麗にしていきます。そして、しばらくすると、もう子羊は自分の力で立ち上がっていきます。酒井さんが言われました。「すごい生命力でしょう。すごいよね…。いいお母さんだね。子どもに、お乳を促している。初乳を飲むかどうかが勝負です。子羊にとって、一番大切なのが初乳で、免疫から何から全部入っていて、スターターキットみたいなもの…。それが無いと、直ぐにお腹をこわして、簡単な細菌にやられて助からないですからね。命ってね、儚くもあるけれど、超強くもあって、生きる方向に転がり始めると、すごい勢いで生きようとするし、反対に、死んじゃう方向に転がり始めると、それもまた同じように、すごい勢いで死んじゃう方向に向かう。それを、ちょっと支えて、生きる方向に手助けする。それが効果的に働いたとき、生きるって方向に生命が動き始めると、もう、手が付けられないほど生きる!」。

「もう、手が付けられないほど生きる!」…、とても印象的な言葉でした。“いのち”ということを思うとき、自分の…、人間の…、力など遥かに超えて働いているものに、否応なく気づかされる。羊飼いとして、羊という“いのち”にしっかり向き合って生きているならば、誰もが“いのち”というものの不思議を…、人間の力など遥かに及ばない何かがあることを…、気づかされる。一旦、その“いのち”が…、その羊が…、“生きる”という方向に向かっていくならば、すごい勢いで生きようとする。誰にも止められないほどに…、手が付けられないほどに…、その“いのち”は…、羊は…、生きる! 酒井伸吾さんは、羊飼いとして、そういう経験を重ねてこられて、“いのち”の不思議を…、人間の力など遥かに超えて働く何かがあることを…、感じておられるようでした。何だかとってもいいですね…。番組では、少しからだの弱った子羊のことが取り上げられていました。生後数日の、黒毛の、ぬいぐるみのような可愛い子羊です。酒井さんが気にかけていた子羊で…、しかし、見るからに弱っているようでした。子羊の口の中に指を入れて、体温を計ります。口の奥まで冷たくなっていたら、動けなくなるそうです。黒毛の子羊は、低体温症でした。「入院です。助かるといいけれど…」。酒井さんは、そう言って、手作りの保温器に、その子羊を入れて様子を見ます。夜はマイナス20度に達する北海道の極寒の地…。しかし、この時期、出産は待ってはくれません。さらに、餌やりや、施設の掃除など、出産以外の日常の仕事もこなさなくてはなりません。出産のピーク時は、睡眠不足の日々が続きます。翌日、酒井さんは、保温器に入れた黒毛の子羊を見に行きました。そして、次のように言っていました。「まだ、ミルクを本格的に飲めていないですね。うんちも柔らかいかな~。お前、飲むか?…」。そう言って、哺乳瓶でミルクを飲ませていました。今日の「エゼキエル書」34章16節には、次の言葉がありました。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」。この「エゼキエル書」の言葉を思い起こされる羊飼い・酒井さんの仕事ぶりでした。
「傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」とありましたが・・・、羊飼い・酒井伸吾さんの働きを見て大切なこととして感じたのは・・・、私は、“いのち”というものを思うとき、そこに「一方的な関係」があるのではなく、「相互の関係」があるということを、改めて教えられました。春になると、羊飼いは羊の毛を刈ります。酒井さんの羊は、汚れも少なく、毛づやがいいと評判で、手芸作家から引く手あまただそうです。そして、酒井さんも、ご自身で編み物をされて、帽子や靴下を作られるそうです。酒井さんは、次のように言っていました。「編み物は羊飼いの嗜み(たしなみ)として、しなければならないことです。羊は、いるだけで、お肉はいろいろな料理に加工されていくし、羊毛は衣服や絨毯とか、衣食住のすべてを賄う凄い存在です」。酒井さんが、羊に惹かれたきっかけは、羊毛でした。帯広畜産大学に入学して1が月後のこと…、たまたま参加したサークルで羊毛の糸紡ぎに魅了されました。大学の先輩が営む牧場を手伝う内にどんどん羊にのめり込んでいき、26歳のとき、一念発起して羊と共に生きる遊牧民に会いにモンゴルに渡りました。そこに“自分の目指す生き方がある”と、感じたそうです。

それから、20年…、酒井さんは、“いのち”と懸命に向き合う羊飼いとして歩んでこられたからこそ、本当に大切なことを経験として感じてこられたのだぁ~と思います。この度のコロナのことでは、羊を出荷する羊飼いという仕事も、出荷先のレストランなどが軒並み店を休業する事態となり、酒井さんも、コロナ危機の苦境にあるお一人のようでした。けれども、“いのち”を預かる仕事として…、「仕事」として、羊飼いである酒井さんが羊を出荷し、羊を仕入れたお店が、お客さんに羊のお肉を提供していくわけですが…、私たちは、羊に限らず、鳥でも、豚でも、牛でも、そうやっていただいているわけです。しかし、スパーなどに綺麗に並べられた「お肉」だけを見ていますと、やはり“命をいただく”という意識は少なくなってしまうのかもしれません。そういう、本当には“いのち”を預かり、“いのち”をいただく仕事として…、もちろん、それは「仕事」ですから、採算を度外視することはできません。「仕事」として成り立たなければ、羊飼いをする人は誰もいなくなるでしょう。しかし、酒井さんは、単に経営としてのお金の話しだけではなく、別な視点でも…、酒井さんの言葉です。「この子たちの命をちゃんといただいて、誰かにとどけなきゃいけないという思いが凄く強くて…、このコロナのことで、世の中が幸福な状態でないと自分の仕事も成り立たない、と、知らされました。そして、そもそも、太陽に照らされて、土があって、自然があって、初めて自分の暮らしが成り立っているということを凄く感じています。そして、羊のおかげ!…、羊のおかげで、今、こういう幸せな暮らしができているし、本当に、羊飼いで良かったと思います。羊飼いとは、“生きる根源的な職業”のようなものではないでしょうか…」。そう、お話しされたことが印象的でした。

私は…、今日の「エゼキエル書」34章の言葉を読んで、そして、日本に数少ない羊飼いを職業にされている酒井伸吾さんという羊飼いの仕事や生活のことを教えていただいて…、2つのことを感じましたので、最後にそのことに触れて終わりたいと思います。
1つ目は、“いのち”というものは、“循環している”ということです。言い換えるなら、“相互に関係している”ということです。“いのち”とは、その命だけで存在している、というものは、何一つありません。神さまは…、私たち人間はもちろん、すべての“いのち”が生きることのできる環境を整えてくださいました。前にもお話ししたことがありました。旧約聖書に「創世記」という書物があります。そのはじめに「光あれ」と神さまがおっしゃってはじまった「天地創造」の物語があります。光が創られ、大空と海が分けられ、乾いた地ができ、草が生え、様々な生き物が造られ、そして、最後の最後に、私たち人間の創造がある。この聖書の「天地創造」の物語…、メッセージは、いろいろあります。そのうちの大切な1つは、私たち人間とは、そもそも、どのような存在なのか?…、何者なのか?…、ということでしょう。すべてが整えられて、私たちは生きている…。いえ、生かされている。「天地創造」の最後に「人間が造られた」というのなら、それは、そうでなくては、“私たち人間は生きることができない”ということでもあるでしょう。すべてが整えられて…、すべてに支えられて…、私たちの命はある。つまり、“すべては私たちに還ってくる”のです。環境破壊も、生き物の乱獲も…、私たちが、そのように生きれば、結局、すべては、私たち人間に還ってきます。もう一度、「エゼキエル書」34章3節から「お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力づくで、過酷に支配した」。王さまだけの話しではありません。現代では、私たちの生き方を問う言葉として読むこともできるでしょう。しかし、そういう人の生き方が、続く5節「彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりちりになった」。羊がいなくなれば…、羊飼いは、どうなるのでしょうか? 酒井伸吾さんの言葉です。「羊のおかげ!…、羊のおかげで、今、こういう幸せな暮らしができている」。“いのち”は繋がっています。“いのち”と“いのち”とは、一方的な関係にあるのではなく、相互に支え合っています。生きることの根源的なことに触れるなら、今日の「エゼキエル書」の言葉がより身近に迫ってくるように感じます。

そして、最後にもう1つ…、私は、今日の「エゼキエル書」の言葉から、すべての“いのち”は、やはり、神さまが支配されていることに心を留めました。それは、改めて、そう言われれば、気づくことかもしれませんが、私たちは、その“いのち”の真理を…、“いのち”の根源的なことを…、よく忘れて生きているのではないか?と思います。“いのち”というものを、何か当たり前かのように受けている私たち人間というものがあるかもしれません。自分たちの欲望のままに“いのち”を奪い、“いのち”を都合よく利用して生きている。そういう「人間」の姿が、今日の「エゼキエル書」34章の言葉から浮かび上がってくるように感じます。確かに、私たちは、何かの“いのち”をいただくことによって、生かされている者でしょう。羊の命もいただいて、生きている者です。しかし、それは、決して、当たり前のことではなく、その“いのち”を創造された神さまがいてくださることによってです。今日の「エゼキエル書」…、もし、私たち人間が、この世界の“いのち”を軽んじるなら…、「当たり前」と言って、何の畏れもなく受けていくなら…、その“いのち”を私たち人間から取り上げ、神さまご自身が、その“いのち”を養われる、と、そう宣言されているようにも聞こえました。すべての“いのち”は繋げられています。その“いのち”の真の牧者がおられます。その牧者に守られ、支えられている“わたしの命がある”ことを心に留めたいと思います。

<祈り>
愛する神さま、それぞれの場所での礼拝のひとときを感謝します。礼拝は、あなたが、あなたの言葉を私たちに届けようとしてくださる恵みのときです。あなたの言葉を聞かなければ、私たちは、自分が、一体、どのような存在なのか? 何者なのか? 分からなくなる者です。あなたが創造してくださった、この世界の不思議と美しさを思います。すべての“いのち”が互いに繋げられ、支え合うものとして造られています。私たち人間のわざは、やがて、すべて、私たち自身に還ってきます。この世界を創造されたあなたを思うことができますように。私たちが、まことの人として生きるなら、充分に生きることができる環境を、あなたはこの世界に備えてくださっています。そのあなたに信頼して、この週も、私たちがまことの人として生きることができますように、お導きください。
このお祈りを、主イエス・キリストの名前で御前にささげます。アーメン。
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◇牧師より……高崎教会の皆さまへ お知らせ
*それぞれの場所での礼拝のひとときが、神さまの言葉を心に留め、自分自身の思いと対話をしていくようなときとなりますように。私ども夫婦の家庭礼拝では短い礼拝プログラムをつくって、家庭礼拝をささげています。賛美歌はアカペラ(無伴奏)で歌いますので、途中で音がかなり怪しくなりますが、それでも部屋に響く賛美に励ましを受けています。それぞれの場所での礼拝の様子や工夫などありましたら(分かち合ってもよい情報があれば)お知らせください。

*水曜日の祈り会も教会に集まっての集会を休止しています。それぞれの場所での祈りの時間が守られますように。9月に入りましたので、教会の今月の祈りの課題の1つとしては、毎年9月に覚えています「教会学校月間」でしょうか。今日の宣教にも触れましたが、一人で聖書を読むときと、みんなで聖書を読むとき(コロナの収束を願いつつ)と…、そうした時間をこれからも大切にしていきたいと思います。
今年の夏は、猛暑だったり、梅雨のような長雨があったり…、教会員の皆さまとそのご家族皆さまのご健康が守られますように。

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