2021年8月15日(日)「青い芝草が萌え出るように」

メッセージ

宣教題:「青い芝草が萌え出るように」
聖書箇所:エゼキエル書13章1~16節

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おはようございます。
今朝も聖書の言葉に心を留めるひとときを、ご一緒に過したいと思います。
さて、今日、8月15日は、日本がアメリカをはじめとする、いわゆる「連合国」との戦争に負けた日です。その日から、今日で76年が経ちました。「76年」という歳月は、「戦争」の悲惨で過酷な現実を体験的に知っているという人たちが、いよいよいなくなるということも意味しています。「戦争」の本当の恐ろしさを、体験的に知っているということは、この国が再び戦争への道を歩もうとするなら、それを阻止する力にもなるでしょう。けれども、たとえば、今、自分の都合のいい「平和」を主張しながら、その都合のいい「平和」のために、かつてこの国が戦争によって、その都合のいい「平和」を実現しようとしたことを、公然と肯定するかのような発言が、この国の政治のリーダーたちから聞こえくることがあります。そういうときに、これまでは、そうした「声」を諫める戦争経験者の力も働いてきたのでしょうけれども、まさに、あの戦争を経験した人たちがなくなるというときに、そういう危うい発言を戒める言葉が聞こえてこない現状が、今、まさに、起こっているかもしれません。
作家の辺見庸さんが『生活と自治』という月刊誌に連載記事を書いておられ、その連載記事を集めたものが本になって出版されました。その本の中に…、2015年のことです…、テレビ中継された国会の質疑の中で、ある自民党議員の発言と、その発言を聞いた国会の様子に、辺見さんが「背筋が寒くなった」という出来事を書いておられました。次の文章です。「飲み屋話ではない。テレビが中継している国会の質疑でのこと。おどろいた。発声された『八紘一宇』という言葉だけでなく、それを聴く閣僚や議員らの苦笑、失笑、嘲笑、無表情にあきれ、なんだか背筋が寒くなった。現在のグローバル資本主義の中で、日本がどう振る舞うべきかの『根本原理』が『八紘一宇』に示されている――というのが、ある自民党議員の余りにも唐突な主張であった。『八紘一宇』は、日本書記に『八紘(あめのした)を覆いて宇(いえ)となす』とあるのを根拠に、国家主義的宗教家・田中智学(たなか ちがく)が、日本による世界統一の原理として、20世紀初頭にこしらえたスローガンであり、太平洋戦争中には『大東亜共栄圏』建設のための海外侵略を正当化する言葉になった。その『八紘一宇』を、どう思うか?と問われた閣僚が、以下のような答弁をする。『やっぱり、1500年以上も前から、今の日本という国の、同じ場所に、同じ言語をしゃべって、万世一系・天皇陛下というような国は他にありませんから…。5世紀から『日本書記』という外交文書を持ち、『古事記』という和文の文書を持って、きちんとしている国って、そうないんで…、そこに綿々と流れているのは、たぶん八紘一宇のような考え方であろうと思います…』。噴飯ものである。21世紀の『八紘一宇』は、こうしたとんでもない曲解と誤認と失笑のうちに、政府首脳に激論もなく受け入れられた」。このような文章でした…。76年前の、今日、終わったという戦争…、そして、その戦争の時代のこと…。時が経つにつれて、それは、避けようもなく、その戦争や、その時代のことを、直接「知らない」という人たちが増えていきます。それは、避けることができません。けれども、その過去の出来事を…、そして、やがて、歴史となっていく出来事を…、私たちは、どのように学び、また、記憶していくのか?…。そして、また、私たちの後の世代に、その歴史を、どのように受け継いでいくのか?…。そのことが問われているでしょう。

先ほど読んでいただきました「エゼキエル書」13章…。10節には、次の言葉がありました。「平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ」。聖書が語る「平和」ということを繰り返し心に留めながら、その平和がないのに、自分の都合のいい「平和」…。まさに、先ほどの「八紘一宇」のような、この国の権力者にだけ都合のいい「平和」…。天皇を「神」と頂く日本の国を頂点にして、世界の国々が、その日本に仕え、そこで治められるという「平和」…。しかし、アジアの国々は…、特に、中国や、朝鮮半島の人たちは…、76年前の今日まで、その都合のいい・自分勝手なだけの「平和」に苦しめられたのです。16節にも、次の言葉がありました。「エルサレムに預言するイスラエルの預言者たちよ。平和がないのに、都のために平和の幻を見る者たちよ、と主なる神は言われる」。「平和がないのに」…、偽りの「平和」を語る、偽りの預言者にならないために…、二度とならないために…、歴史をよく学んでいきたいと思うのです。
私は、いま、「偽りの平和を語る、偽りの預言者にならないために…、二度とならないために…」と申しました。そして、そのために「歴史をよく学んでいきたい…」と申しました。そのことの、小さな1つのことかもしれません。それでも、新しく学んだことがありました。あの戦争の時代…、「八紘一宇」などという、偽りの「平和」の話しなどではありません。しかし、その偽りの「平和」に、当時の日本のキリスト教会も、そのほとんどが、まさに「偽預言者」となって、偽りの「平和」を語っていきました。そして、その偽りの「平和」が、まさに“偽りである”ということの最たる証明…、たとえば、それは、一人ひとりという、「個」の命が潰されていく現実です。聖書が語る“平和”…、シャロームの“平和”…、イエスさまの“平和”…、とは、決して相容れないもの…、自分の都合のいい「平和」のために、戦争も必要だと語り、その都合のいい「平和」に邪魔な存在を生きる価値がない命として潰していく…。

ご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。「こころの時代」という教育テレビの番組でした。「詩人 尹東柱(ユンドンジュ)を読み継ぐ人びと」という番組です(2019.2.10)。詩人である「尹東柱」という方のことをご存じでしょうか? 私は、少し前に、この方のことを知りました。韓国では大変に有名な方で、多くの人に愛されている詩人とのことです。大学入試などでも、尹東柱の詩がよく取り上げられるとのことです。尹東柱のふるさとは、朝鮮半島の北、中国の北関東、朝鮮語でプッカンド(北間島)と呼ばれる地域です。彼の生まれ故郷・明東(ミョンドン)は、朝鮮の人たちが中国との国境の川である豆満江(トゥマンガン)を渡ってつくった開拓の村でした。異郷で生きる村人の心の拠り所は、キリスト教でした。尹東柱(ユンドンジュ)も、幼い頃に洗礼を受け、教会が運営する小学校に通いました。17歳で、祖国・朝鮮のピョンヤンにあるキリスト教系の学校に転校します。信仰の自由を重んじる学校は、日本が強制する神社参拝を拒否。学校への弾圧が続き、尹東柱は抵抗の意味を込めて自主退学しました。20歳のとき、ソウルの学校へ。朝鮮語の授業をいつも前の席に座って熱心に聞いていたそうです。尹東柱は、文学を学びながら、多くの詩を書きました。ソウルの学校を卒業するとき、手製の詩集をつくりました。3冊つくった詩集のうち、友人に贈った1冊が戦後まで保管され、尹東柱の死から、3年後、出版されています(『空と風と星と詩』)。
24歳になった尹東柱(ユンドンジュ)は、ソウルの学校に、一つの届けをします。そのことを記録した「学籍簿」が残されていました。「尹東柱」の名前が赤字で消され、「平沼東柱(ひらぬま とうちゅう)」と書き直されています。当時、朝鮮人の姓(せい)を、日本式の氏(うじ)にする「創氏」と、下の名を日本風に変える「改名」が…、「創氏改名」が…、行われていました。当時、植民地として支配を受けていた朝鮮半島の人たちは、日本による同化政策を受け入れなければ、生きること自体が難しいという、現実に直面していました。尹東柱も、さらに文学を学び、彼の人生を生きていくためには、日本への留学はやむを得ない選択だったようです。しかし、そのために、自分の名前を変えるという「創氏改名」を受け入れなければなりませんでした。「懺悔録」という詩には、そのときの辛い心情が詠われています。日本がアメリカとの戦争を始めて間もない1942年の春、尹東柱は、キリスト教系の立教大学で英文学を学び始めました。
番組では、「尹東柱の詩を読み継ぐ人々」ということで、何人かの方が紹介されましたが…、今日の宣教に関係するところで、日本聖公会・奈良教会の司祭をされています、井田泉さんという方のことをお話ししたいと思います。井田泉さんは、大阪外語大学で朝鮮語を学ばれました。同じキリスト教信仰を持つ尹東柱(ユンドンジュ)の詩を、20年にわたり自分の言葉で翻訳されてきました。尹東柱が立教大学で学んでいたときに書いた「白い影」という詩も紹介してくださいました。そのはじめの部分をお読みします。「黄昏が濃くなってゆく街角で 一日中 疲れた耳を静かに傾ければ 夕闇の移される足跡の音 足跡の音を聴くことができるように 私は聡明だったでしょうか…」。この詩の中に、「足跡の音」という言葉が出てきます。井田司祭は、次のように解説されました。「“足音”と訳す人もいますが、私は“足跡の音”と、原文の言葉をそのまま残したいと思いました。“足跡の音を聴く”とは、特別なことなんです。過去から、今、聞える、ある人物の足音が、その足跡から、私に聞こえてくる。過去の、歴史の、誰かの出来事を、自分の心と、心の耳で聴いて、それを、今のことのように感じるとは、特別なことなんです。尹東柱は、聖書を読んでいました。聖書を持って生きていました。その聖書から語りかけられるイエスの姿と言葉と声とが、尹東柱の中に入ってくる。そういう自分にされてしまったということの宿命…、現実…、そのことを彼は思っているのではないでしょうか? そして、朝鮮の歴史の中の、いろいろな人の足跡の音を聴くということも、彼の中では大切なことだったに違いないと思います。…(中略)…、想像ですけれど、朝鮮の文化、文学、ことば…、自分が生きている限りは、それらを集め、保ち、後の人たちに託していくことが、最終的には、尹東柱の召命感ではなかったか?…、という気がします」。
おそらく、井田司祭は、私と同世代の方かと思います。戦後、韓国のキリスト教会との交流を持ってきた井田司祭には、長年の気がかりありました。日本が朝鮮半島を植民地支配し、中国に対しては侵略戦争をした時代…、井田さんが所属する日本聖公会は、天皇を中心とした国家繁栄と戦争の勝利を祈願していました。日本聖公会が、戦時中、礼拝のときに用いた『祈祷書』があります。『祈祷書』は、本来、聖書の教えに基づいて、祈りをささげる祈祷文ですが、しかし、戦時下の教会で、祈祷文は、天皇を寿ぐ(ことほぐ・お祝いの言葉を述べる)言葉に書き換えられていきました。井田司祭は、次のように言っています。「日本聖公会は、戦時中の、そうした行為について、戦後ずっと手をつけずに来ました。しかし、自分たち戦後世代の司祭たちで、戦争の時代に、私たちの教会が、どのような祈りをしてきたのか? どのような礼拝をささげてきたのか? どのような説教をしてきたのか? 戦時中の聖公会の新聞をできるだけ読み直し、関連記事を丹念に調べたのです。そうすると…、私たちが思っていた以上に、具体的に、当時の日本聖公会の戦争協力の実態が浮かび上ってきたのです。これは、なかったことにはできないと思いました。旧約聖書の『詩編』32編4節に、次の言葉があります。『御手は昼も夜も わたしの上に重く わたしの力は 夏の日照りにあって衰え果てました』。神さまの手が、私を圧迫しているような…、そんな時期がずっと続いたのです。これは、どうしても、歴史を受け継いでいる人間として…、ここに居る者として…、間違いは、間違いとして、神さまの前に告白しなければ、この重圧から逃れられないと思いました」。日本聖公会は1995年に、あの戦争の責任を教会として公式に認め、悔い改めの告白をして、新しい教会の在り方を目指す宣言をしました。井田泉司祭は、さらに、そのときの思いの中に、「強制された訳ではないけれど」と…、尹東柱や韓国の人たちとの出会いに促されて…、出会ってしまった人間として…、その人たちのことを「裏切りたくないと思った」と語っておられました。

旧約聖書で平和は、シャロームです。そのイメージは、たとえば、真ん丸です。どこかに凹みがあってはダメなのです。どこにも凹みのない真ん丸…。誰かの犠牲の上に築かれる平和を、聖書は…、神さまは…、平和とは言われないのです。今日の「エゼキエル書」…、13章1~3節「主の言葉がわたしに臨んだ。人の子よ、イスラエルの預言者たちに向かって、預言しなさい。自分の心のままに預言する者たちに向かって預言し、言いなさい。主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。災いだ、何も示されることなく、自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者たちは…」。エゼキエルは、神さまの言葉を預かって、イスラエルの預言者に語ります。「イスラエルの預言者」とありますから、その人たちも、神さまの言葉を預かって、人々と共に、神さまの言葉を分かち合う務めに立てられた人たちでしょう。でも…、その人たちは、神さまの言葉を分かち合うのではなく、「自分の心のままに預言する者たち」とあるのです。あの76年前の今日まで、まさに、日本のキリスト教会は…、日本聖公会だけの問題ではなりません。私たちバプテストの教会も、戦中・戦前、嫌々ではなく、積極的に、天皇を中心とした国家繁栄と戦争の勝利を祈願していったのです。戦後、井田泉司祭が導かれていったように、「主の言葉を聞く」ことがなければ…、井田司祭は、「詩編」の言葉に、強く促しを受けていたようですが…、何にせよ「主の言葉を聞く」ことがなければ…、たとえ、預言者といえども…、「キリスト教会」と謳っていても…、もはや、その預言者は…、教会は…、「偽(にせ)」と言われるものでしかないのでしょう。預言者がまことに預言者たるには…、教会がまことに教会であるためには…、「自分の心のまま」ではなく、「主の言葉を聞く」以外に、その道はないのです。

今日のお話しの最後に、もう少しだけ尹東柱(ユンドンジュ)の話しをして、終わりたいと思います。1942年の10月に、東柱は、同じ年の従兄(いとこ)・宋夢奎(ソンモギュン)が京都帝国大学に留学していたこともあって、京都に移ります。尹東柱は、京都では同志社大学で学びました。しかし、京都に移ってから、1年も経たない、1943年7月に、最初に従兄の宋夢奎が、続いて、尹東柱が、治安維持法違反で逮捕されます。「治安維持法違反」と言っても、別に「暴動を起こした」というような話しではありません。ただ「朝鮮の歴史や文化を大切にしたい」と、友人に話しただけです。けれども、あの当時の日本においては、朝鮮の人たちが民族意識を持つこと自体が法律に触れることでした。名前を奪われ、言葉を奪われ、文化を奪われ…、すべてが無かったかのようにされて…、それは、その人が、その人として、生きること自体を否定する行為にほかならないでしょう。そういう世界のどこに、平和はあるのでしょうか?…。聖書の神さまは…、イエスさまは…、その人が、その人として生きることを、何より喜んでくださる方です。名前を奪い、言葉を奪い、文化を奪い、国を奪い、故郷を奪い…、「そこに平和はない!」とは、聖書はもっともなことを語っているでしょう。
尹東柱(ユンドンジュ)と宋夢奎(ソンモギュン)には、治安維持法違反の罪で、懲役2年の刑が言い渡され、福岡刑務所に投獄されました。そして、戦争が終わる約半年前の1945年2月16日に尹東柱は、獄死しました。生体実験や拷問での死ではないか?…、と言われています。尹東柱が亡くなって…、東柱のお父さんが、遺体の引き取りに福岡に来たそうです。遺体の引き取りに来なければ、九州帝国大学医学部に解剖用として提供すると、福岡刑務所から通知が届いたようです。何とか福岡に来た東柱のお父さんは、そのときは、まだ生きていた宋夢奎に面会しました。しかし、連日、名前も分からぬ注射を打たれて、宋夢奎は喘ぐように苦しんでいたと言います。尹東柱の最期を見たという日本人の若い看守が「何の意味か分かりませんが、大きな声で一言叫んで息を引き取りました」と話したそうです。遺体は火葬され、故郷に戻りました。3月6日、東山(トンザン)教会墓地に埋葬されました。その4日後の3月10日、従兄の宋夢奎(ソンモギュン)も獄死しました。2人とも、27歳という若さでした。
最後に、尹東柱(ユンドンジュ)がつくった詩の1つ…、「星を数える夜」をお読みします。「星を数える夜:星ひとつに 追憶と 星ひとつに 愛と 星ひとつに 寂しさと 星ひとつに 言葉と 星ひとつに お母さん お母さん(オモニ) お母さん わたしは星ひとつに美しい言葉を一言ずつ呼んでみます。小学校のとき机を並べた子らの名前と ペ キョン オク このような異国の少女たちの名前と すでに赤ちゃんのお母さんとなった娘たちの名前と 貧しい隣人たちの名前と 鳩 小犬 うさぎ らば 鹿 フランシス・ジャム ライナー・マリア・リルケ このような詩人の名前を呼んでみます。これらの人たちは、あまりにも遠くにいます。星ははるかに遠いように お母さん そしてあなたは遠く北間島(プッカンド)におられます けれども、冬が過ぎて わたしの星にも春が来れば 墓の上に青い芝草が萌え出るように わたしの名前の字がうずめられた丘の上にも 誇らしく草が生い繁るでしょう」。27年という短い生涯で…、自分の出会った大切な名前の一つ一つを覚えながら…、これらの人たちは、星が遥かに遠いように「あまりにも遠くにいます」と語った尹東柱…、最期、異国の牢獄で何を思っていたのでしょうか? 少しの救いは、東柱(ドンジュ)が「けれども」と…、「けれども、冬が過ぎて わたしの星にも春が来れば 墓の上に青い芝草が萌え出るように…」と、それは復活の希望の思いを詩に込めたということでしょうか?…。今日、8月15日…、あの戦争が終わった日…、主の言葉に耳を傾ける私たちが想いたいことは、この国の犠牲者のことと共に、不条理な死を強いられた隣国の人たちのことではないでしょうか。十字架に死に、そして、復活の命に、今も生きて働いてくださる方が、寄り添われない場所はどこにもないのです。

<祈り>
愛する神さま、今日から再び教会に集まっての礼拝を休止していますが、それぞれの場所での礼拝を感謝します。今日、8月15日は、この国が戦争に負けた日です。その日から76年…、私たちは、その歩みを新しくされて、あなたに向かって歩いているでしょうか? 「自分の心のまま」ではなく、あなたの言葉を聞くことがなければ、道を誤る私たちです。毎週の礼拝において、あなたの言葉を聞く者とさせてください。すべての命が、等しくあなたの御前に尊いものとされています。しかし、人が「神」とされていくような世界においては、そのことは軽んじられていくでしょう。あなたをまことの神として礼拝し続ける者と、私たちをお導きください。
このお祈りを、主イエス・キリストの名前で御前にささげます。アーメン。
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◇牧師より……高崎教会の皆さまへ お知らせ
*それぞれの場所での礼拝のひとときが、神さまとのよき対話のときとなりますように。
8月は特に、神さまの平和を願って礼拝をささげています。今日、午後3時から「きたかん8・15平和礼拝」がオンライン(ZOOM)で行われます。ZOOMに接続可能な方はどなたでもご参加できます。お時間のある方はぜひご参加ください。なお、参加される方は牧師まで直接ご連絡ください。

*水曜日の祈り会も教会に集まっての集会を休止しています。それぞれの場所での祈りの時間が守られますように。祈りの課題として…、今月は、新型コロナウイルス収束のために、キリストの平和を覚えて、などをあげています。また、ここ数日大雨が続いています。大雨による被害がでませんように、祈りたいと思います。さらに、日本バプテスト連盟のホームぺージをご覧いただきますと、『バプテスト』誌の「協力伝道カレンダー」をご覧になれます。連盟諸教会の祈りの課題も覚えてお祈りください。
梅雨のような天候が続いています。教会員の皆さまのご健康が守られますように。

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