宣教題:「神の前に一人ひとりが生きること」
聖書箇所:エゼキエル書18章1~4節、21~32節
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おはようございます。
今朝も聖書の言葉に心を留めるひとときを、ご一緒に過ごしたいと思います。
さて、今月8月は、「エゼキエル書」を通して、この国が、あの76年前の8月までしていた戦争のことも思いながら、戦前・戦中、そして、戦後の歩みついても、お話しをさせていただきました。先週の日曜日は、ちょうど8月15日で、あの戦争が終わった日と重なりました。しかし、その後の、この国の歩みは…、戦争に負けて、多くの人を殺し・殺され、また、国を焼き・国を焼かれて、「二度と、そのような過ちは繰り返さない」と、おそらく、誰もが誓ったように、すっかり新しい国となって歩んできたのか?…、と、問えば、しかし、胸を張って「歩んできた!」と答える人は、あまりいないのではないかと思います。8月・第一主日の礼拝では、戦後の「天皇」を巡る報道の問題や、坂口安吾という作家の「天皇陛下にささぐる言葉」という文章も取り上げました。この国は「現人神」という偶像の神を、戦後も抱え続けて歩んでいるのかもしれません。また、8月・第二主日の礼拝では、一旦は、戦前・戦中の思想と決別し、新しく生きることを模索した作家・三島由紀夫のことを取り上げました。しかし、三島由紀夫が、結局は戦前・戦中の思想へと回帰していったように、それは拭い難く多くの人に影響を与え続けているでしょう。そして、先週の8月15日の礼拝メッセージでは、朝鮮半島出身の詩人・尹東柱(ユンドンジュ)のことに触れ、如何に、戦争というものが…、そうした歩みへと至る思想や精神が…、「個」というものを…、一人ひとりがその人として生きることを、潰していくものであるのか! …、そうしたことにも思いを向けました。もちろん、そもそも私たち人間のつくる社会に完全はありません。いつも、途上の歩みです。欠けも、破れも、矛盾も…、あります。でも、そうであるからこそ、私たち教会は…、信仰者は…、神の言葉を聞き続け、神さまの思いが「天になるごとく地にもなるように」と祈りつつ、神さまの働きに参加させていただきたいと願っているでしょう。
先ほど読んでいただきました「エゼキエル書」18章…。私は、ここにも…、欠けも、破れも、矛盾も多い、私たち…、そして、私たちの社会…。しかし、その私たちを、戦争ではなく平和へと、闇ではなく光へと、一人一人ということを潰していくのではなく、誰もが自分を生きることができる世界へと…、私たちを導こう(引き上げよう)としてくれる言葉が“ある”と感じます。
「エゼキエル書」18章1節と2節には、次の言葉がありました。「主の言葉が私に臨んだ。『お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。【先祖が酢いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く】と』」。前にも少し触れましたが、「エゼキエル書」の時代背景として…、この書かれた時代、南ユダ王国は、バビロンとの戦争に負け、国の滅亡の危機にありました。祭司であったエゼキエルも含めて、国の主だったリーダーたちが「捕囚の民」としてバビロンへと連れて行かれ、異教世界に生きる中で、自らの信仰の危機にも直面していたでしょう。一方、残されたイスラエルの人たちは敗戦の混乱の中で、頼るべきものを求めて右往左往していました。国はかろうじて滅亡を免れていましたが、その危機は常に目の前にありました。そうした状況の中で、この時代を生きたイスラエルの人たちの間には、「なぜ、自分たちはこのような目に遭ったのか? どうして国は滅亡の危機に瀕しているのか?」などの、深刻な問いがあったようです。人びとの間では、先ほどの2節の諺が繰り返し口にされていました。「先祖が酢いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」。つまり、自分の前の世代の人たちが悪いことをしたお陰で、自分たちにその責任が降り掛かっている、という主張です。しかし、そこには…、つまり、自分の境遇を「子孫の歯が浮く」と語る人びとの思いの中には、自分が受けている今の苦しみは「自分の責任ではない!」との強い思いが込められていたのです。イスラエルの人たちは、神さまが自分に、このような苦しみを与えるのは、そもそも「間違ったことである!」と言っていたのです。18章25節には、預言者・エゼキエルを通して語られた、神さまの次の言葉がありました。「それなのにお前たちは『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか」。「主の道は正しくない」とは、イスラエルの人たちの主張です。同じ言葉が、さらに29節にも繰り返されています。
私は、今日の「エゼキエル書」の言葉を読みながら、あの76年前の戦争が終わった後の、この国の歩みのことを…、それは、つまり、私自身のことを含めて、今、この社会に生きる私たち一人ひとりにとっても、問われていることがあると感じました。それは、たとえば、あの戦争の時代からの「宿題」とでもいうべきことが“ある”ということです。「あの戦争の時代からの宿題」…、それが「宿題」であるならば、私たちが、どこかで、向き合わなければならないことです。確かに、あの76年前の戦争については、直接的に「責任」のある人が…、たとえば、私たち高崎教会にいるわけではありません。76年前…、社会に責任ある立場としての「大人」を生きていた人はいないのです。でも、あの戦争を受けて、その後の、この国の歩みについては、私たち一人ひとりも、神さまに問われていることがあるでしょう。そして、あの戦争の時代からの「宿題」とは…、もちろん、いろいろなことが考えられると思います。私が意識していない(意識できていない)そういう「宿題(課題)」も多いと思います。そのことは申し上げながら…、その上で、今日の「エゼキエル書」の言葉に促されて、私が感じています、あの戦争があって、その後の時代を生きる私たち…、そのとき、この国が向き合わなくてはならない「宿題」について、私なりに、2つのことに触れたいと思います。1つは、「天皇」という存在です。そして、もう1つは、「自衛隊」という存在です。そして、この2つの存在の共通の課題として…、今日の「エゼキエル書」のテーマである、「個」という問題が…、「一人ひとり」という問題があるのではないか?…、と思いました。
76年前の8月…、あの戦争が終わって、しかし、あの戦争に対する、この国の一番の「責任者」とでも言うべき「天皇」は、アメリカをはじめとするいわゆる「連合国」から、“責任を問われる”ということがありませんでした。そして、あの当時の日本の国民も「天皇」の戦争責任を問おうとはしなかったでしょう。一体、あれだけのことがあって…、一番の「責任者」が、誰からも“責任を問われない”、などということがあるのか?…。あっていいのか?…、普通に考えれば、そういうことでしょう。そして、あの戦争の責任と言うことで言えば、国民自身もどうか?と言われるとき…、それは、さらに、私たち日本のキリスト教会はどうか?と言われるとき…、先週、日本聖公会の戦争責任のことにも触れましたが…、おそらく、あの戦争の責任の自覚というものが、多くの人にとって、どういう訳かすっぽりと抜け落ちていた…、そういうことだったのではないでしょうか? もちろん、三島由紀夫のように、それぞれが、自分のこととして、自分なりに、あの戦争のことに、あの時代のことに、真摯に向き合おうとしていた人もいたでしょう。けれども…、多くの人は、戦前・戦中と、天皇を賛美し、戦争に積極的に関わりながらも、戦後、そのことへの真摯な反省はほとんどなく、おそらく、多くの人は「責任などと、とんでもない!」、むしろ、「自分はあの戦争の被害者だった!」と思い込むことで、何事もなかったかのように、戦後の時代を歩んでいったのではないか?…、と、想像するのです。
そして、「天皇」という存在のこと…、本当は、あの戦争が終わったとき、この国が、真剣に、問うべきテーマだったでしょう。76年前の戦争が終わってから…、そして、76年後の、今…、この国における「天皇」という存在への問い…、その「宿題」…、それは、棚に上げられたままなのではないでしょうか?…。たとえば、「天皇」という存在を問うてゆくとき、今日の宣教のテーマですが…、1つのこととして、「個」という問題が…、一人ひとりが、その人として大切にされて生きるという問題が…、浮かび上がってくるのではないか?と思います。「天皇」という存在について…、素朴に感じる問いを並べてみます。そもそも、「天皇」とは、何でしょうか? どうして、この国の歴史において、特別扱いされるのでしょうか? どうして、天皇の名によって、戦争が始まるのでしょうか? そして、どうして、すべての人が自分の人生を中断させられて、戦争へと協力させられるのでしょうか? それほどの権限が、一体、どこにあるのでしょうか? どうして、多くの人が日の丸を振って、「天皇陛下万歳!」と叫ぶのでしょうか? どうして、天皇とその家族には、名前だけあって、姓(氏)がないのでしょうか? 天皇は、結婚や、離婚は、自由にできるのでしょうか? 職業選択の自由や、どこに住んだり、どこに行ったりする自由はあるのでしょうか? そういう権利は「ない(できない)」と言うのなら、それは、どうしてでしょうか? その自由を認めない権利は、一体どこに…、一体誰に…、あるのでしょうか? 天皇個人の「表現の自由」は、認められているのでしょうか? 前の天皇は退位しましたが、それは、どうしてできたのでしょうか? そして、退位した天皇は、なぜ、一般市民にならないで、「上皇」という…、「上皇」と言えば、私は「後鳥羽上皇」くらいしか知りませんが、ともかく、なぜ「上皇」などと言う存在になったのでしょうか? この21世紀の、この国の「社会」に、「上皇」とは、何のことなのでしょうか? さらに、どうして、天皇は「男」しかなることができないのでしょうか? 歴史上、女性の天皇もいました。そして、そもそも、「天皇制」を、やめることはできないのでしょうか? やめて、何か不都合なことでもあるのでしょうか? ぜひ、聞いてみたい問いです。しかし、おそらく、誰も答えてはくれないでしょう。そして、この宣教のテーマで言えば、そもそもの問題は、「天皇」に「個」はあるのか?…、ということです。聖書を読む信仰者の立場で言えば、この世界を創り、私たちの命を創造された神さまによって、その人、その人に、与えられている命の尊厳はあるのか?…、ということです。他者が侵してはならない領域です。聖書の神の言葉を聴く者であるなら、他者が立ち入ってはならない領域があることを知っています。他者の命を奪ってはならないのです。他者が、その人として生きる権利を侵してはならないのです。けれども、あの「天皇」という人間を…、そして、その家族を…、私たちこの国の国民は、東京の、もと江戸城の、今は皇居と呼ばれる場所に押し込めて、「象徴」などという、分かったような…、いえいえ、実は、「象徴」とは、何のことなのか? ほとんどの人はよく分からないのだと思います。そういうよく分からないものを運命のように負わせて…。私は…、そもそも、そうした根本的なズレのようなことが、この国に、「個」というものが…、一人一人ということが…、育たない決定的な要因なのではないのか?…、と、感じるのです。
そして、あの戦争を受けて、戦後の歩みを続ける、この国の「宿題」の、もう1つのこと…、それは、「自衛隊」という存在です。もちろん、災害支援など、今、自衛隊が負っている働きを担うような組織は必要だと思います。ここで私が問いたいのは、その組織が、実質的には、戦争に備える「軍隊」である、という問題です。戦後、私たちの国は、この「自衛隊」という組織と、私たちの国の憲法との問題で議論を重ねてきました。ご存じのように、日本国憲法・第9条には、次の言葉があります。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。そして、9条・第2項に、次の言葉があります。「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」。「陸海空軍その他の戦力」を「保持しない」と憲法にあります。けれども、この国には「自衛隊」があります。世界で上位に入る軍事力を備えた「自衛隊」という組織を、「戦力ではない」と言う人は、おそらくいないでしょう。憲法9条と、そして、自衛隊という戦力のある「現実」とは、明らかに矛盾するわけです。ご存じのように、その矛盾をどうするのか?…、ということで、これまでいろいろな解釈がなされてきました。現実に合わせて、憲法9条を変えるべき、という主張があります。その反対の、憲法9条に合わせて現実を変えるべき、という主張もあるでしょう。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」のイエスさまの言葉を思うなら、聖書の立場は、やはり、この考えに近いでしょうか?…。他にも、矛盾はそのままに…、つまり、今の現実と憲法9条の主張と、その中間をあえて選ぶという意見もあります。さらには、「憲法とは、その言葉通りに100%守らなければならないものではない。その精神にできるだけ誠実に歩むことが大切で、“最低限の武力”というものはあるのではないか?」と主張する憲法学者もいるようです。この宣教では、こうした問題を議論することが目的ではありませんし、少しの時間でどうこうできるテーマでもないでしょう。しかし、それでも、あの戦争の時代からの宿題…、「個」という問題…、一人ひとりが大切にされて生きること…、そのことについては、少し触れたいと思います。
聖書が、なぜ、戦争や、軍隊や、あるいは王さま(王制)ということ…、そういうことを嫌うのか? それは、端的に言えば、「個」というものが大切にされないからだと思います。「一人ひとり」ということが重んじられないからだと思います。ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。「クローズアップ現代」という番組で、自衛官の自殺(自死)の問題が取り上げられました。自衛隊では、2002年以降のデータで、毎年のように、60人から100人ほどの自死者が出ています。これは一般の公務員と比較して、およそ2倍の自殺率とのことでした。閉ざされた「軍隊」という世界の中で…、上下関係の厳しい組織の中で…、ここ10年くらい前から、深刻ないじめやパワハラも増えていて、そして、仕事柄、共同生活も多く、逃げ場もなくて…、自らの命を絶つほどに追い詰められる人が何人もいるという現実です。国を相手に、遺族が裁判を起こすケースもありますが、多くは遺族の「泣き寝入り」の状況です。その背景には、まさに、自衛隊が“軍隊”という組織である…、“戦争のため”の組織である…、そのことに要因があるようでした。自衛隊の自死者が増えて、「自衛官の人権弁護団」を設立された佐藤博文さんという弁護士が、次のように話していました。「自衛隊というのは、軍事組織ですから、秘密性というのが一番です。われわれ弁護士から見ると、客観証拠を得ることが非常に難しく、真相に迫るための裁判すら起こせないというケースが多々あります」。「クローズアップ現代」では、息子さんを自死で亡くされた川島五月(かわしま さつき)さんというお母さんが、国を相手に裁判を起こされたことも紹介されました。川島五月さんの場合は、何とか裁判は起こせたものの…、しかし、それでも、自衛隊という組織の壁に…、軍隊の組織の壁に…、阻まれて、大切な自分の息子の死の真相さえ明らかにされない…。痛々し現実も報道されていました。番組で、語られていた元航空自衛隊・幹部候補生学校長の林吉永さんという方の言葉が印象的でした。「自衛隊に入りますと、“個人が殺される”わけです。“個”が抑制される社会ですから、組織の言いなりにならなければいけない、というのが宿命です」。
私たちは、今日の聖書の言葉からも、問われているのでしょう。人は、どのように生きることが大切なのか?…、を。聖書の基本となるメッセージの1つに、“神ならぬものを神とせず、人をまことに人としていく”ということがあります。戦後のこの国の歩みの宿題…、「天皇」という存在を考えるとき、私は、やはり、聖書が警鐘を鳴らす「神ならぬものを神としない」ということ、その危険(爆弾)を私たちはずっと抱えているのだと思います。そして、神でないものを「神」としようとすることで、如何に「天皇」と呼ばれる人を…、また、その家族を…、苦しめているのではないか? そして、もちろん、その「現人神」を利用しようとする・この世の「力」によって、尹東柱(ユンドンジュ)のような、潰されていく命があることも思うのです。そして、自衛隊という、いわば「軍隊」の存在…、その世界は、まさに、「個」というものが犠牲にされていく世界です。そして、戦争とは、人が人でなく、モノのような存在にされる究極の現実です。「人をまことに人としていく」という神さまの思いに反するものを、その危険を、私たちの社会(世界)は戦後もずっと抱え続けているのではないでしょうか?
聖書は・・・、なぜ、問い続けるのでしょうか? 旧約聖書の言葉ですから、紀元前の大昔からです。私たちが、人間だけの世界を生きるとき、いつも、そこに、的を外すからではないか?…、と思います。神ならざるものを「神」としていく私たちです。人をまことに人とせず、上げることによっても、下げることによっても、モノのような存在にしていく私たちです。そういう私たち…、そういう私たちの社会…、そこに向かって、神の言葉が、エゼキエルに預けられます。もう一度、18章30節から「それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりを、その道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。…(中略)… わたしは、誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」。神さまに問われること…、神さまに裁かれること…、それは、実は、救いなのです。「誰の死も喜ばない。立ち帰って、生きよ!」と言われる神さまがおられることを覚えて、誰かの犠牲の上に築かれる偽の平和ではなく、すべての人をまことに人として愛する神の平和にこそ、仕えていきたいと思います。
<祈り>
愛する神さま、今日も教会に集まっての礼拝を休止していますが、それぞれの場所での礼拝を感謝します。預言者エゼキエルは、あなたの言葉を預かって、一人ひとりが、それぞれに与えられた自分の人生の責任を託されていることを語りました。それは、裏を返すと、人は、それぞれが、「自分を生きる」ということが、あなたにあって望まれ、喜ばれていることかと思います。でも、今、私たちの社会は、「一人ひとり」ということを大切にできず、誰かの命や人生を犠牲に強いて、その上に築く社会に生きてもいます。途上を歩む私たちですが、神ならぬものを神とすることがありませんように。すべての命を重んじてくださる、あなたに従う歩みの中で、生きづらさを抱える命の解放を求める、あなたの働きに、私たち教会も仕えることができますように…。私の命を、そして、私の隣人の命を、大切にしてくださる、あなたを覚えることができますように。
このお祈りを、主イエス・キリストの名前で御前にささげます。アーメン。
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◇牧師より……高崎教会の皆さまへ お知らせ
*それぞれの場所での礼拝のひとときが、神さまの言葉に心を向け、神さまとのよき対話のひとときとなりますように。8月・9月と「エゼキエル書」を読んでいきます。「エゼキエル書」は戦争の時代を背景にもっている文書ですから、非常に重たい物語が続きます。しかし、このような文書の存在が、困難な時代を生きる人たちに神の言葉を届ける役割を担っているのでしょう。闇が覆うかのような世界で、神の言葉を預かっていきる私たち教会の使命は何か?と考えさせられます。「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」(18:32)の言葉を新しく受けていきたいと思います。
*水曜日の祈り会も教会に集まっての集会を休止しています。それぞれの場所での祈りの時間が守られますように。今月の祈りとして、新型コロナウイルス収束のために、キリストの平和を覚えて、など。また、梅雨のような天気が続いていますが、蒸し暑い毎日です。ご高齢の方や体調を崩しておられる方のためにもお祈りください。連盟諸教会の祈りの課題も覚えてお祈りください。教会員の皆さまのご健康が守られますように。