2021年9月12日(日)「主が立て直す」

メッセージ

宣教題:「主が立て直す」
聖書箇所:エゼキエル書36章25~38節

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おはようございます。
今朝も聖書の言葉に心を留めるひとときを、ご一緒に過したいと思います。
さて、8月から「エゼキエル書」を読んでいます。「エゼキエル書」が書かれた背景には、イスラエルが神さまに背を向け、結局のところ「自己礼拝」とも言える偶像礼拝に走り、人と人との関係も大切にせず、バビロンとの戦争によって多くのものを失ったにもかかわらず、バビロンへと強制連行された人たちも、また、祖国に残された人たちも、「これ以上の危機は来ない」とか、「祖国に帰れる日は近い」とか、そうしたことを言って、生き方を方向転換することなく、むしろ、ますます心を頑なにして、神さまから離れていったという状況がありました。そうした状況の中で書かれた「エゼキエル書」ですから…、その内容は、どうしても神さまの厳しい言葉になるでしょう。「神さまの厳しい言葉」ですから…、預言者エゼキエルの立場で言えば、神さまの厳しい言葉を取り次ぎ、人々と分かち合おうとすることは、それは、本当に大変なことだったと思います。もちろん、厳しい言葉を受けることも辛いことでしょう。誰だって耳の痛い話しは聞きたくありません。けれども、「歴史は繰り返す」と申しますか…、確かに「エゼキエル書」は、約2500年前のイスラエルの歴史的な出来事を背景として書いています。けれども、それは決して大昔の話しではありません。神の言葉はいつも時代を超えて、今を生きる私たちに語りかけられる言葉です。2500年前のイスラエルの姿は…、今の私たちのこの国の姿とまったく別物などと言うことはないでしょう。
イスラエルで祭司であったエゼキエルは、バビロンとの戦争に敗れたあと、自らも囚われの民として故郷を追われ、バビロンへと連れて行かれました。何もかもを失ったイスラエルの人たちでしたが…、神さまは心を頑なにするイスラエルの人たちを、それでも見捨てることなく、祭司エゼキエルを神の言葉を預かり、神の言葉を分かち合う預言者として立てて、イスラエルとの関わりを持ち続けるのです。ここまで「エゼキエル書」を読んできて、イスラエルに対する神さまの厳しい言葉が続いていますが…、繰り返しますと、エゼキエルが預言者でなければ、とても語り続けることなどできなかったでしょう。厳しい言葉を語るのは、優しい言葉を語るよりも本当に辛いことです。聞き心地のよい言葉なら、誰もが語りたいと思うかもしれません。しかし、人が聞きたくないような言葉を…、向き合いたくないような現実を…、分かち合うように、と促す言葉を語るのは、きついことです。それでも、エゼキエルは神さまから「預言者」としての務めを託されました。たとえ人々の聞き心地のよくない言葉であっても、神さまの言葉を預かる預言者は…、今の時代で言えば、私たち教会は…、この世に向かって語り続けなくてはならない神の言葉があることを知るのです。

エゼキエルは、自分の国が滅びていくという過酷な歴史の現実の中で、神の言葉を預かり、その言葉を分かち合うように立てられた預言者でした。その時代、イスラエルは、国が北と南に分裂していて、とうの昔に、北イスラエル王国はアッシリア帝国という大きな国に滅ぼされていました。残った南ユダ王国も、その後、アッシリアに取って代わったバビロンとの戦争に敗れ、イスラエルに残されたのは僅かに都エルサレムだけでした。悔い改めて…、方向転換して…、神さまに立ち返る機会は、何度もあったと思います。「立ち帰れ、立ち帰れ」と、神さまも預言者エゼキエルを通して、イスラエルの人たちに語りかけていたのです。けれども、イスラエルの人たちは、神の言葉に耳を傾けず、行き着く所まで行ってしまうのです。先週のメッセージでも触れました。しかし、どうして、人は、行き着く所まで行ってしまうのでしょうか? 今日の「エゼキエル書」36章26節には、次の言葉がありました。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」。ここに「石の心」という言葉があります。「石の心」…、まさに、変わらない、変われない…、「石」のように頑なな「心」です。人は、神さまではありません。限りある欠けの多い、弱さも過ちもある存在です。大切なのは、道を間違ったときには心を柔らかくして方向転換することでしょう。何度でも新しくはじめることです。「変わる」こと、「変えられる」ことは、罪でも、恥でもありません。むしろ、新しく“変えられていく”ことこそ、聖書の神さまから信仰をいただいた私たちの生き方です。このときのイスラエルは、このままバビロンとの戦争を続けても悲劇なだけでした。何の意味もない。ただ失われる命が増えるだけです。誰かが傷つき、痛み、そして悲しむだけです。でも、変えられない、変われない…。人間の心は、「石」のように頑ななのです。

先週、パラリンピックが終わりました。今回、コロナ危機の中でのオリンピック・パラリンピックということで、しかし、そうであるからこそ、改めて浮かび上がってきた課題もいろいろとありました。そもそも「オリンピック」とは、何なのか?…。コロナの状況だからこそ、立ち止まって考えてみるこの上ない機会だったかもしれません。オリンピックについては、新聞の記事にも様々な意見が載せられていました。コロナの状況がなければ、おそらく単なる「お祭り騒ぎ」で終わったのかもしれない…。そして、政治や経済の世界では、この世界的なお祭りを「とことん利用すること」しか考えないのかもしれない…。おそらく、コロナの状況がなければ、そもそも、オリンピックとは何か?…。一度、立ち止まって考えてみる…。そういう機会にならなかったのではないでしょうか?…。たとえば、私は…、一旦、動き出したことを途中で止めて(終えて)、方向転換するということの難しさ…、そのことを感じました。新聞の記事にも、この国の76年前の戦争のことに重ねて、一旦、動き出したことを途中で止めることの難しさ…、そのことを論じている記事がありました(朝日新聞『多事奏論』2021.3.17・2021.6.9)。今日の「エゼキエル書」には「石のような心」という言葉もありましたが…、その新聞の記事には「大きな石」という言葉が…、「大石」という言葉が出てきます。少しご紹介します。その記事は、日本が戦争をしていた時代、この国のリーダーでした東条英機元首相の言葉が引用されていました。それは、はじめ、日本が優勢だった戦争が次第に不利になり、普段は強気な東条首相が旧知の陸軍担当の記者にポツリと語った言葉とのことでした。「戦(いくさ)というものはね。山の上から大石を転がすようなものだ。最初の50センチか、せいぜい1メートルぐらい転がった時なら、数人の力でとめることもできるが、2メートル、5メートルとなれば、もう何十人か、何百人かでなければ、とめることはできない。それ以上になれば、結局、谷底まで、行きつくところまで行かなければ始末はつかないのだよ…」。「戦争」というものは、まさに、そういうものなのでしょう。「エゼキエル書」のその時代、イスラエルがした戦争は、まさに、行き着くところまで行かなければ始末はつかなかった…。そして、イスラエルだけではく、日本のあの戦争もまた、行き着くところまで行かなければ始末はつかなかった…。あの時代のこの国のリーダーは、そういうことが分かっていて…、しかし、もはや、どうすることもできなかったということでしょう。

さらに、その新聞の記事には、今年のはじめに亡くなられた(2021.1.14)作家の半藤一利(はんどう かずとし)さんのことが書かれていました。あの戦争を経験した人たちが次第に亡くなっていくことに危機感を覚えますが…、とにかく、戦争を止めること…、そのことが如何に至難の業であるか…。半藤さんの著書『日本のいちばん長い日』からの引用です。ご存じのように、今から76年前…、1945年8月に広島と長崎に原爆が落とされ、ソ連も日本に対して参戦し、この国は万事休すの状態でした。連合国から突き付けられた無条件降伏を受け入れるか、それとも、拒んで本土決戦に賭けるか、二者択一の中で鈴木貫太郎内閣が直面したのは、戦争を終えることの難しさでした。誰が、どう考えても、あの戦争は負けでした。それでも戦争を止めることができない。人の心は「石」のように頑なとは、その通りです。半藤一利さんは、敗戦前夜の場面を克明に再現しておられました。たとえば、一刻も早く戦争を止めようとする米内光政(よない みつまさ)海軍大臣と、天皇制を守ること、また誇りある敗北に固執する阿南惟幾(あなん これちか)陸軍大臣が激しく対立した場面が記されています。8月14日の夕刻、対立は最高潮に達しました。天皇がいわゆる玉音放送で読む、ある短いフレーズの言葉遣いで2人は激しくやり合います。戦局が日に日に悪化していくことを示す原案の言葉に、阿南陸軍大臣は「戦争は負けてしまったのではなく、ただ現在好転しないだけの話し」と反対を主張しました。この期に及んで「戦争は負けてしまったのではなく…」とは…。私は…、半藤さんから、日本の敗戦に至る過程で、こうした史実があったことを知らされるとき、おそらく、イスラエルもまた同じように「戦争は負けたのではない。ただ現在は好転しないだけの話し…、エルサレム神殿が異国の手に落ちるはずなどない。神の国・イスラエルは負けない!」、そう言って、行き着く所まで行ってしまったことを想像するのです。新聞の記事には、一旦、動き出したことを止めることの難しさを、あの76年前の戦争の歴史に思い起こしながら、しかし、その教訓を生かして、人の命に関わる事柄としては、コロナも重なることではないか?…、と語り、この国のリーダーに「何がなんでも、オリンピックではないだろう」と…、「立ち止まることも大切では?」と意見が述べられていました。オリンピック開催の意義として、「震災からの復興」だとか、「コロナに打ち勝った証し」だとか、いろいろ言われてきましたけれど…、私は、何か、今日の「エゼキエル書」の言葉を読むとき、この世界を…、社会を…、まことに「建て直して」いくのは、やはり、人間の企てによるものではない、と…。今日の宣教題…、“人間が”、ではなく、やはり、“神さまが”、建て直してくださるということを…。もう一度、36章26節「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」。「新しい心」は、“人間から”ではなく、“神さまから”与えられるものであることを知らされるのです。

そして、今日の聖書の箇所ですが…、改めて読んでみて…、救いの言葉を語りはじめるエゼキエルですが…、それでも、よく読んでみますと…、なお、神さまの厳しい言葉が出てくることにも気づくのです。皆さんは、今日の箇所を、どのように読まれるでしょうか? たとえば、もう一度、36章28節から32節までを読んでみたいと思います。「お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となり、わたしはお前たちの神となる。わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。わたしは穀物に呼びかけ、それを増やし、お前たちに飢えを送ることはしない。わたしが木の実と畑の作物を豊かにするので、二度と飢饉のために、国々の間で恥をこうむることはない」。まず、ここまでは、いいのですが(神の回復の約束)…、さらに、続けて、31節から「そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる。イスラエルの家よ、恥じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え」。確かに「エゼキエル書」36章には、イスラエルの復興の言葉が語られています。しかし、今、お読みしたように「お前たちは、自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし…、自分自身を嫌悪する」とか、「イスラエルの家よ、恥じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え」とか、神さまの厳しい言葉が語られているのです。
今回、改めて「エゼキエル書」を学んで…、「これは、どういうことだろう?」と思い巡らしました。私は…、今日のお話しの流れから言えば、どこまでも神さま抜きで生きようとする人間の姿が…、人間が計画し、人間が行うことに、あたかも“救い”があるように考える。“希望”があるように考える。戦争にせよ、オリンピックにせよ、そうかもしれません。そして、そういう私たち人間の歴史を、性懲りもなく繰り返してきたのかもしれません。それこそが、まさに「エゼキエル書」の「石」の心…。私たちには拭い難くそういうものがあって…、神さまはそのことをよく分かっておられるから、この厳しい言葉を語られたのではないか?…、と感じました。「石」の心を取り除き、この世界をまことに“建て直す”のは、私たち人間ではなく、“神である”…。そのことを心に留めるように…、そうした願いが込められているのではないかと思います。

聖書は・・・、人間の希望を語らないのです。「人間」が・・・、あるいは、「人間のすること」が・・・、“希望”であるとか、“救い”であるとか、そういう話しをしないのです。一切しないのです。おそよ「人間の希望」を語るのであれば、それは聖書ではなく他の書物でしょう。今日の宣教では、オリンピックについても触れました。先ほど取り上げた新聞の記事とは別なものに、「サラエボの夢、東京の夢」と題する記事もありました(朝日「日曜に想う」2021.4.4)。覚えておられる方もいらっしゃるでしょう。サラエボという街は、現在はボスニア・ヘルツェゴビナという国の首都ですが、冬のオリンピックが開かれた1984年当時、サラエボはユーゴスラビアの地方都市でした。「サラエボの夢、東京の夢」と題する記事の一部を少し読んでみます。「サラエボ市中央区長のスルジャン・マンディッチさん(48)が振り返る。『当時は12歳足らずでしたが、鮮明に覚えていますよ』。冷戦(アメリカとソ連の対立)さなかの1984年、社会主義圏初となる冬季大会は、東西の緊張緩和への期待を集めた。ユーゴスラビア(当時)の地方都市に過ぎなかったサラエボの市民は、給与の0.5%ずつを持ち寄って競技場の整備に充てた。マンディッチさんの両親も、その運動に加わった。『この小さな街に、ハリウッドスターのカーク・ダグラスが観戦に来たんです。世界最高レベルの選手も集まって、私たちの誇りは大変なものでした』。男子大回転でユーゴの選手が2位に入り、この国に冬季初のメダルをもたらした。地元は大いに沸いた。(しかし)8年後、ユーゴからの独立を宣言したボスニアは、泥沼の内戦に突入した。ボシュニャク系、セルビア系、クロアチア系の主要3民族が武器を手に争い、『民族浄化』と呼ばれる虐殺が起きた。カタリナ・ビットが舞ったリンクは遺体安置所になり、オリンピック施設は廃墟と化した。3年あまりの戦争が終わり、すでに四半世紀が経つ。社会の分断は今も激しい。同じ言語を話し、共通の文化を育み、結婚も普通だった3民族は、もはや交わらない。別々の学校に通い、別々の店で買い物をし、別々の政党を支持する。その閉塞感に嫌気が差して、若者たちはどんどん国外に流出する…」。新聞の記事には、さらに、2012年に行われましたイギリスのロンドン・オリンピックのことにも触れられ、そこで掲げられた理念は崇高であったけれど、しかし、その後のイギリスの歩みは、ヨーロッパ(EU)からの離脱など、イギリス社会の排他主義の広がりもあって、実は「一時の結束の儚さ」が、ものがたられていたのではないか?とありました。そして、今回の東京オリンピックは、どうなのか?と…、そこには、もはや掲げるべき理念すらなく、後世に残すメッセージもなく、この世界に、一体、何を発信するのか?…、とありました。

私たちは、人間的な…、この世的な…、「何か」が、希望になることを願って…、救いになることを願って…、そのことに、望みを託そうする者でしょう。「サラエボの夢、東京の夢」とは、そういうことかもしれません。そして、そういう、この世的なものから…、人間的なものから…、なかなか離れることができない者です。「エゼキエル書」は、ようやくこの書の後半に入って、戦争で何もかもを失ったイスラエルの希望や救いを語っていきますが、しかし、「石」のように頑なな心を持つ人間を前に、心からの方向転換を願う、神さまの真剣な思いが、今日の厳しい言葉に表れているのかもしれません。宣教の最後に、35節の言葉に触れて、終わりたいと思います。35節「そのとき人々は(神さまが、イスラエルのすべての罪を清める日)、『荒れ果てていたこの土地がエデンの園のようになった。荒れ果て破壊されて廃墟となった町々が、城壁のある人の住む町になった』と言う」。「エデンの園」という言葉が、印象的でした。「エデンの園」とは、ご存じのように「創世記」の天地創造の物語において語られている、神さまに創造された人間が、まことに人として生きる世界です。そこに語られているメッセージの1つは…、私たち人間とは、“神さまと共に生きる者である”ということでしょう。そして、私たちに与えられた命は、“そこに存在していること自体が、何よりも神さまに望まれ、喜ばれ、祝福されている”ということでしょう。私は…、人間がつくり上げた「オリンピック」というものを考えるとき…、あるいは、人間が性懲りもなく繰り返す「戦争」というものを考えるとき…、そこに根深くある思想として、端的に言うならば“速く・高く・強く”という価値観が根深く存在しているように感じるのです。もし、そうであるならば、それは、やはり、聖書の「エデンの園」が大切にしようとする世界とは相容れない…、どうしてもズレてくる…、そういうことではないでしょうか? 聖書は…、「エゼキエル書」は…、人間の希望を語りません。私たちにとって、何が、まことに、私たちを…、この世界を…、救うのか? 人間の歴史を振り返りながら、神の言葉にこそ耳を傾けていきたいと思います。

<祈り>
愛する神さま、教会に集まっての礼拝を休止していますが、それぞれの場所での礼拝のときを感謝します。あなたが創造された、この世界と、私たちの命を思います。あなたは、すべての命を、無条件に祝福し愛しておられます。私たち人間の側の条件や資格によって、価値があるとか・ないとか、そういう命はありません。けれども、私たち人間が考えることは、あなたの思いから離れていくことばかりです。「エゼキエル書」に書かれている、あなたの厳しい言葉を聞きます。しかし、それほどまでに「石」のような頑なな心がある私たちがいます。あなたが新しい霊を私たちにお与えください。あなたの御心を探し求めつつ、まことの人として私たちを生かしてください。
このお祈りを、主イエス・キリストの名前で御前にささげます。アーメン。
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◇牧師より……高崎教会の皆さまへ お知らせ
*それぞれの場所での礼拝のひとときが、神さまの言葉を心に留め、自分自身の思いと対話していくようなひとときとなりますように。みんなで集まっての礼拝をお休みにしている期間が長くなるにつれて、聖書に登場する信仰者の姿が気になるようになりました。その一人が、「創世記」に出てくるヨセフ(創世記37章~)です。ヨセフは波乱万丈の人生を生きましたが、エジプトで長く囚われの身として生きました。文字通りに、彼は一人(独り)監獄に入れられますが、ヨセフの信仰と命を支えたのは何であったのか?…、そうしたことが気になりました。コロナの、このような時を過ごすからこそ気づかされることが、それぞれ皆さんにも沢山あることと思います。後日、そうしたことも分かち合うような機会を持てたらいいかもしれません。

*水曜日の祈り会も教会に集まっての集会を休止しています。それぞれの場所での祈りの時間が守られますように。9月の教会の祈りの課題の1つとしては、「教会学校月間」を覚えて、みんなで聖書を読むときを大切にすることをお祈りいただければと思います(コロナの収束を願いつつ)。また、連盟諸教会の祈りの課題は、北関東地方連合の諸教会が続きます(日本バプテスト連盟のホームページに「協力伝道カレンダー」がありますのでご参照ください)。ちなみに本日(9月12日)は大宮教会です。覚えてお祈りください。
朝晩は少し涼しくなってきました。季節の変わり目、教会員の皆さまとそのご家族皆さまのご健康がまもられますように。

*礼拝は19日から再開します。15日(水)の祈り会までお休みといたします。

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